出来レース
引き続き”外交敗戦”手嶋龍一 平成19年5刷を読んでいる。読んでいるうちに、ますます、イラクのフセイン大統領のクエート侵攻は出来レースだったという確信を強めた。
理由1.米国はフセイン大統領のクエート侵攻をあらかじめ知っていたように見えること。世界が驚いても米国は驚かなかった。
理由2.イラクとの戦争に踏み切ったことの手際が良いこと。あらかじめ、いつごろと決めていて、その通りに実行した。
理由3.サダム・フセインは、なぜ、この時期を狙って、サウジアラビアを奪おうとしなかったのだろうか—-。湾岸危機最大の謎は未だに解き明かされていない。・・・解き明かしてみせましょう。サダム・フセインはコントロールされていたからです。
当時、笛をふき、太鼓をたたいた人たちは、さぞ面白かったことだろう。踊れ、踊れ、踊らぬ奴は・・・
日本の対応については、まるで子供の選択だと思った。つまり、あれもほしい、これもほしい、どちらも手放したくないという駄々っ子の選択である。今の安倍政権にも通じるところがある。
人生には、あれもこれもという選択はない。あちらを取れば、こちらを捨てなければならない。それが捨てられないのである。日本が太平洋戦争に突き進んだのも、せっかく勝ち取ったものを、捨てられないがためだった。
日本が憲法を守ろうと思ったら、米国の要請には沈黙を守らねばならなかった。どんな脅しをかけられてもである。どうせ米国で儲けても何らかの形で吸い取られる。しばらくは米国との取引を中断し、嵐が過ぎるのを待っている方が一番賢い選択ではなかったかと思う。
うさぎの耳で世界の情勢をキャッチし、急いで日本に帰り、亀のように嵐が過ぎ去るまで首をすくめて待つ。飢えないだけの蓄えを日本はしているはずである。どんな時でも、行け行け、ドンドン、では徒労感と敗北感だけが残るのではないだろうか。
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2014年7月28日 | コメント/トラックバック(0) |
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