偽善と本音

吉野川市付近の吉野川です。写真で見ると海のようです。右が上流、左が下流です。この写真は吉野川の何番目かの堰を撮っています。

今朝は雪でした。雪で心配しながら三好市消費者協会の新年会をしました。前日に同じ場所で池南の新年会をしたのだとか。池南は4000円、三好市消費者協会の会費は2500円です。料理が違うと言っていました。残さず料理を食べきりました。朗読サークルの人の朗読がとても良かった。涙を流して聞き入ったのに、どんな話でなぜ涙が出たのかもう忘れました。

偽善と本音、本音を言う人の話はストレートで面白い、偽善は聞きたくなかった。世の中は偽善に満ちている。しかし、ふっと偽善がなければ世の中は成り立たないのではないかと考えるようになった。偽善とタテマエはよく似ている。

偽善と本音、ネットで調べていると面白い言葉に出会った。

日本人にはタテマエがない。本音しかないのが日本人。日本人は改革ができない理由がコレだ。

むしろ偽善が必要なんです。たしかに人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。

日本人は本音と建前の二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。建前はすぐ捨てられるのだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。

逆に、世界は実は二重構造で偽善的にやっている。

偽善には、少なくとも向上心がある。

人間はどうせこんなものだからと認めてしまったら、そこから否定的契機は出てこない。

こんなものは理念にすぎないと、すべての理念は虚偽であると言っていたのでは、いまあることの全面的な肯定しかないわけです。

日本人は露悪趣味、露悪趣味の人間は何も目指していない。むしろ、善を目指すことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。

私が偽善について考え始めたきっかけは、シリアや中東、アフリカ諸国の内戦を見てのことです。あの内戦は力と力の対決、ホンネと本音の対決、動物としての争い、ではないだろうか。そこに少しでも偽善が入っていたならば解決方法はあるのではなかろうかと思ったのですが。

“善人なおもて往生する。いわんや悪人をや”という歎異抄の言葉に高校生の時、図書館で出合って衝撃を受けました。

これは偽善を戒めている言葉だと思います。これをもって日本人は悪路趣味と言ったのかもしれません。

民主主義とは偽善で成り立っている社会かもしれないと、今そこまで考えています。

戦後70年、民主主義を維持してきたということは、日本人も偽善の2重構造を理解している、悪路趣味ではないともいえるのだが。

歎異抄ができたのは鎌倉時代、貴族の偽善に対して武士の本音を容認した書だったのかもしれないと考えています。

今、また歎異抄といわれるのは、民主主義の偽善に対して武力を容認する社会的背景があるのかもしれないと考えます。

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2018年2月5日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:ブログ

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