日本人は戦っています

先日、中2町内会旅行に行った時のサッポロワイナリーの写真です。

右手の方がブドウ畑です。まだブドウの実が残っていました。左手がワイナリー、一通り見学して、建物から出てすぐの写真です。

サッポロはビールだけしか知りませんでした。ワイナリーを持っていたこと、なぜ岡山なのか、ここにあるブドウだけで足りるのか、質問したいことは山ほどありましたが、残念ながら日曜日で、質問はできませんでした。

今日は本の整理をしていると、簿記能力検定の合格書が出てきました。昭和50年2月27日;4級合格、6月2日;2級合格、6月8日日本商工会議所の検定試験3級合格、そして、11月18日には工業簿記・原価計算科1級に合格している。

息子が生まれたのが昭和48年、その頃は、いろんな事があったから、勉強に逃避していたのだろう。おそらく通信教育である。英検も2級までしか取れなかった。私は2級人間だと自負していた。まあ、若い頃はがんばっていたんだな~と自分をほめている。でも、こんな思い出も捨てると決めた。

人間の目利き、曽野綾子・吉村作治氏の対談、2014年発行、を読んでいると、次のような文章に出くわした。

私が本質的な問題だと思うのは、日本人は今、戦わなくなってしまったのよね。他人とも戦わず、自分とも戦わない。戦うことは全部悪いことになってしまったんです。

何を怖れる、という本の中に曽野綾子氏はいなかった。曽野綾子氏は戦う必要のない環境に置かれていたのだろう。

今日の朝日新聞の読者の手紙にも、憲法9条は必要ないという意見が載っていた。私たちは憲法9条を守るために戦っているし、そのために日本は戦争を免れたという事実を直視していない。

韓国はベトナムにも行ったし、湾岸戦争にも行ったし、徴兵制度もある。日本が韓国のようにならなかったのは、平和憲法のおかげである。安倍首相の安保法制に反対する根拠も憲法9条にある。根拠を失ったら、韓国のようになるのは目に見えている。私たちはそのために戦っているのに。そして、その戦いは自分との戦いでもあるし、他人との戦いでもある。

日本人は敗戦でふぬけになってしまった、とはよく言われる言葉です。敗戦直後はそうだったかもしれない。しかし、ずっとふぬけになってしまっていたのでは、このような経済発展はできなかった。米国の理不尽な要求に耐え、隣国の理不尽な攻撃に耐えることが、ふぬけと言われるならば、戦争を避ける手段はない。

目先のことにウロチョロするな

昨日と同じ今日はない

それがオヤジの口ぐせだった

花にするのもがまんなら

山にするのもまたがまん

北島三郎の山という演歌の一節である。これをきいて、日本人はふぬけと言えるのか。吉村作治氏に尋ねてみたい。

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2015年11月4日 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:ブログ

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